2014年7月20日日曜日

日本の社会コンテキスト(出生率 パート3)

出生率もそうだが、日本の社会を考える時には、日本の伝統的な社会統治システムを考慮しないと、正しい見方はできないのではないかと思う。海外のメディアの日本の分析で、この考慮がされているものは見たことがない。日本が分析者と同じ社会構造であることを前提にして、目に見える日本の表層的部分を、誤った文脈、コンテキストで理解してしまうようなところがある。伝統的な社会統治システムから派生した原理が正確に把握されていても、その原理の背後にあるシステムは理解されてないようだ。

最近、集団的自衛権の閣議決定があったが、17年前に書かれた資料にある日本のルールの“解釈”、運用に関する記述は、決定の背景にある原理を正確に把握している。

Japan’s Aging Economics

since few of Japan's restrictive rules are specific laws but instead rely on red tape and quality standards administered with considerable latitude. To change the situation, officials need only the motivation to apply the rules differently, and the new circumstances should provide it.

では、どうしてこのようなルール運用をするのか、その背後にあるものはなにかということになると、分析者の文化的、社会的背景からの見方から説明する傾向が強く、正しいコンテキストで理解されない。

日本の伝統的な社会統治システムとはどのようなものかという理解のヒントは、エドウィン ライシャワーの Japana:The History of A Nation という日本の歴史の本にあった。大化の改新は小学校の教科書にも出てくるので、誰でも知っている歴史上の出来事だと思う。このときから中央集権化が大きく動き出したという。


1.   それまでの豪族の私地(田荘)や私民(部民)を公収して田地や民はすべて天皇のものとする。(公地公民制
2.   今まであった国(くに)、郡(こおり)、(あがた)、県(こおり)などを整理し、令制国とそれに付随する郡に整備しなおした(国郡制度)。国郡制度に関しては、旧来の豪族の勢力圏であった国や県(あがた)などを整備し直し、現在の令制国の姿に整えられていった。実際にこの変化が始まるのは詔から出されてから数年後であった。
3.   戸籍計帳を作成し、公地を公民に貸し与える。(班田収授の法)
4.   公民に税や労役を負担させる制度の改革。(租・庸・調

大宝律令などを経て、中央集権化はさらに進み、豊臣秀吉の刀狩で民衆を“武力放棄”させたときに完成した、ということになるらしい。武器を取り上げることができるほど、その時点までに集権化していたのだろう。武器を取り上げたことで武力蜂起はできなくなった(有効的に“逆らう”手段を奪った)。それこと集権化の集大成とよべるだろう。武力政権の江戸幕府は、非武装化された社会を受け継ぎ、社会は鎖国したまま250年近く成熟した。明治から戦前、西欧の影響を受けながらも、基本的な社会統治システムは変わっていない。しかし、戦後、進駐軍が社会統治システムを変える改革を行い、また、伝統的な日本を否定する教育を受けた世代に戦前までの多くの日本の伝統は受け継がれなかった。ここに大きな世代ギャップが産まれ、戦前世代の世界観、人生観は次世代に残らなかった。しかし、1400年近く続いた社会統治システムの社会意識が簡単に消えるわけがない。現在でも明治から戦前に教育を受けた世代は、まだわずかだが残っている。

大化の改新(公地公民、班田収授、租庸調)、大宝律令、刀狩は、日本の義務教育、高校で歴史を学んでいれば誰でも知っていることだが、それがいったいどのようなものだったかを感覚的に理解しているのは少数派ではないだろうか。日本で育っていると、公地公民、班田収授、租庸調を抵抗なく受け取ってしまう文化的土壌があるため、それらが社会に与えた影響を理解することが難しいのかもしれない。他の文化的土壌からみると、公地公民、班田収授、租庸調はどう映るか想像できるだろうか。「民は天皇のもので、民は戸籍で管理し、財産は天皇が貸し与える、代わりに、税や労働を負担せよ」、中華圏以外の国では冗談、笑ネタにしかならないかもしれない。このシステムの本質は、“税や労働”を対価を払わずに得ることだ。税や労働を負担させるために、民を11人管理しなければならない。負担させる理論として、民な天皇のもので、財産を天皇が貸し与えている、がある。

中央集権化を実現するために、社会はどのように統治されたのだろうか。時間を経ながら徐々に“税や労働”の取立ては確立していったようだが、元々氏神を中心にまとまっていた地域(氏神の最上位の神の子孫が天皇というころらしい)を最小単位(村に相当)として、それぞれの単位の権力を与えられた名主が支配し、その名主をその上位の権力者が支配、さらにその上位の権力者が支配するといったピラミッド構造になっていたようだ。軍隊と同じで、トップの一声で末端まで命令が行き届くシステムだ。末端の村は上とのつながりが重視され、水平の繋がりは弱く、村同士の交流を絶つ、つながらせないために心理的、慣習的な障壁が設けられた。人々にとって生活基盤は村にしかなく村からは逃れられないようになっていた。村の生死与奪の権力をもつ上位者にとって、村同士が結託するより、お互いに争っていた方が安泰できるわけだ。社会流動性がなければ、人民管理も容易だ。上位に従順な名主に民の生死与奪の権力をあたえ、孤立している村は名主の元で、その村独自のしきたりで自治する、という社会統治になっていたようだ。絶対的道徳を唱えるような宗教が社会に存在しない( キリスト教を布教する教団の本質が、国を平定中の戦国武将と同じと認識して、競合勢力の1つとして“潰した”。これはこれですごい洞察力だったと思う)。道徳界の権威的な存在が不在で、“絶対善”は認識されず、社会的な力関係で“善”が決まったようだ( 道徳界の権威が性に関する問題を決めるのだが、それが不在の日本は性に関して permissive と映るようだ。正確には、その分野で権威が存在しない(=声を上げる“利益勢力“が不在)ので、”規制“がかかっていないように映るのだと思う )

中央集権化いう目的や、体系化した統治システムが消滅しても、この社会統治システムを維持するために派生した社会意識、慣習、心理障壁は、現在の日本に強く残っているように思える。支配のピラミッド構造は無くなり、法の支配に替わった。末端の村は、それを取り巻くシステムが消えても残った。戦後、欧米流の法整備はされ、戦後の社会システムも出来上がったが、そのシステムの源泉ともいえるマグナ カルタの精神は吹き込まれているだろうか。

http://ja.wikipedia.org/wiki/マグナ・カルタ

王といえどコモン・ローの下にあり、古来からの慣習を尊重する義務があり、権限を制限されることが文書で確認されたという意味が大きい。王の実体的権力を契約で縛り、権力の行使には適正な手続を要するといった点は現代に続く「法の支配」、保守主義自由主義の原型となった

皮は戦後システムだが、あんこは、1400年近くつづいた中央集権化のシステムから派生した原理となっていないだろうか。外部からみれば、同じ饅頭に見えても、あんこは別物なので、味はまったく違うはずだ。しかし、海外からはまったく同じに映る。海外に西欧化した社会システムしか見せないといったことは、明治期(鹿鳴館時代)か現在まで150年間、続いてきた。その手法は洗練されているため、饅頭のあんこは簡単には外部から簡単に見えないようになっている。外見的、形式上は法的根拠がある組織であるようにみせながら、運営は地下に潜った別の実体が別のルールで行うようなことがあるため分かり難い。日本には院政という黒幕が表社会の制約を受けずに暗躍する手法の長い歴史がある。いまでも、表の顔を裏で操るといった“院政”のような手法は見かけないだろうか。公式システムは変えることはできるが、非公式のルールは正式には変えることはできない。

“あんこ“を隠すのは海外に対してだけではない。現在の日本の公式ルールとはまったく別だったり、相反するような非公式ルールは、まだまだいろいろなところで有効のようだ。伝統的日本の社会意識に近い非公式ルールを運用すると、公式ルールに抵触する。公然とは運用できないような非公式ルールを運用するためには、地下に潜る必要がある。皮として公式ルールをかぶり、あんこは非公式ルールという饅頭は減ったようだが、まだまだ存在する。利権が絡むとき、利権を吸い上げるために”島“を孤立させて、横とのつながりを断つ、外見上は公式ルールで運用されているようにみせながら、実体は別、といった”島“は都会でも存在するようだ。隣の建物が“島”になっていることや、そこで実際に何が起きているのか外部には分からないことがある(その利権が何か、その利権を必要としている理由はなにかなど、外部から収集できる情報をもとにあんこを分析しないかぎり、把握不能なほど地下にもぐっている)

戦後日本の社会システムの原理への理解が弱ければ、今でも「村八分」という言葉が“制裁”用語として有効のようだ。偶然集まった者が、形式上は法的根拠がある組織にみえるが、実質的には暗黙のルールで自治する“村”を形成し、ルールに従わない、“村”の思い通りにならない者を一方的に「村八分」と呼んでみたり、横のつながりを断って “島”(孤立を意味する)として利用してみたりするようだ。そして、それが“うまくいく”下地が社会にあるようだ。反社会的勢力が“島”という言葉をつかうようだが、搾取するために孤立させた領域のことだ。外見上、形式上は法的根拠があるように装っているが、実際には非公式ルールが適用され、利権の取立てが起きている場所だ。もし、“村八分”という言葉を聞いて、直感的な理解が制裁だったとしたら、社会意識は前近代的なにかもしれない。その言葉を口から出した者を“反社会的”と認識できるのは多数派だろうか、それとも、少数派だろうか。

グローバル化が騒がれ、社会の一部では、この2面性を是正する(非公式ルールを排除する)動きがガバナンス、コンプライアンス推進で進んだが、その一方で反動として、その逆の流れもあったようだ。

日本の出生率を考えるときにも、伝統的日本の社会というコンテキストから考える必要があると思う。伝統的な日本社会統治から読み取れるのは、心理的、社会的、身体的強制によって目的を達成しようとするシステムだ。人の自発的、啓蒙的努力、積極的な働きかけ、横のつながりを推進するという側面は一部の支配階級以外では見えてこない。その逆の、従順、受動、唯々諾々、上下関係など、税、労働の提供者としてのみ必要な面の方が見えてくる。「産めよ増やせや」政策で人口が増加したのも、社会のプレファレンスを絶対善として心理的、社会的な圧力を働かせたからで、個人の選択が働いた結果ではなかろう。伝統的社会が圧力で“強制”することは公式的にはできなくなった。公式的には個人の選択で物事を決めるのがことになっている、そして、システム的にもそのようになっているが、“半強制“の社会意識は残っている。電話一本で大金を振り込ませる”振り込め詐欺“は、そのような社会的コンテキストでしか、正しく理解できないと思う。都会でも存在するいろいろな形態の”村“では、他人のものでも共有財産と見なし、”村“が権利を主張したり、私生活を侵害する行為が許されると思っていたり、それに対して抵抗する権利はない、それを”コミュニティ“を考えている意識がなければ、”村“は成立しないだろう( このような村をみて、日本をもっとも純粋なコミュニズム(共産主義)に近いと考える視点もあった。もっとも社会主義的な社会と呼ばれたこともあったが、小泉改革以降、変化は起きたようだ )

社会科学系の学問は日本生まれではない。その根本には日本の社会的コンテキストを考慮する視点はない。日本における問題を考える時、1400年という背景のある社会コンテキストで考えてみてもらいたいと思う。


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