2014年7月17日木曜日

出生率 パート2

人口減少は日本に限った問題ではないようだ。先進国と呼ばれる国々では日本以前に減少は始まっていた。一方、出生率が3以上という国/地域は70ほどある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/国の合計特殊出生率順リスト

パキスタン(リストでは出生率 4.0 )の人口は1960年の5千万人から 2012年には一億7千万人に増加した。一方フランスは同じ期間で4.5千万人から 6.5千万人に推移した。このままの傾向が続けば、先進国の人口と途上国の人口がどのような割合になるか想像できるだろう。経済予測とは異なり、人口推移は20-30年先までかなり正確に算出できるので、分かっている人には分かっていることなのだろう。

先進国はどうして人口減少を問題視するかというと、国家にとって人口減少は、経済、外交、政治、社会に幅広く影響を及ぼすからだ。G8諸国の経済規模は大きいが、それぞれ世界的にみて人口も多い。G20は人口上位の国々だ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/国の人口順リスト

人口減少はマイナスの影響を回避するために先進国は出生率を上げる対策をとってきた。人口は放っておけば自動的に最適なレベルに調整されるようなものではないらしい。出生率を上げる政策を成功させるには、政府が出産を奨励するよう長期的に投資する必要があるというのが歴史の教訓だということだ。

http://www.foreignaffairs.com/articles/137515/steven-philip-kramer/baby-gap
Baby Gap

これから先、日本は人口減少による影響が、社会、財政、経済などの分野で出てくるはずだ。影響は徐々にでるため、危機として理解されることはない。日本の人口に関する17年前(1997年)に書かれた小論がある。

http://www.foreignaffairs.com/articles/53050/milton-ezrati/japans-aging-economics
Japan’s Aging Economics

(外交・軍備は別として)現在の日本の状況をかなりの部分で言い当ててはいないだろうか。17年前に、誰もこの内容を現在のように実感できなかったのではないか。

日本でも少子化対策はとられてきたが中途半端のようだ。

http://www.huffingtonpost.jp/yasushi-ogasawara/heretical-thought_b_5553451.html?utm_hp_ref=japan&ncid=tweetlnkushpmg00000067

“出来もしない、フランスやスウェーデン(両国ともに婚外子の比率が半数を超える)の事例を良く引き合いに出す役人と政治家の神経がわからない。フランス型の根本的な原理を理解していないか、日本には参考にならないことを知りながら引用しているかのどちらかなのであろう。移民を少子化と結び付ける議論など、そのための受け入れ移民の数や人口増の時間軸を考えると現実的な議論とは到底言えない”

出生率対策では、フランス/スウェーデン型とアメリカ/イギリス型という2つがよく引き合いに出される。フランス/スエーデンは出生率に関係する社会規範を変えることで、アメリカ/イギリスは移民を受け入れることで、出生率を上げることに成功したようだ。イギリスでは、研究機関が ”The Coming Baby Boom in Developed Economies"(先進国にベビーブームやってくる)というレポートを出すまでになっている。

http://www.huffingtonpost.jp/yoko-kloeden/story_b_5416475.html
働く女が産んでいる

この2つの成功例を参考に、日本でも似たような対策で出生率を上げようと模索しているようだが、手厳しい見方をされている。

http://magazine.gow.asia/life/column_details.php?column_uid=00000586
思わず子どもを産みたくなる!海外の少子化対策がスゴい

この記事のタイトルは目を引くかもしれないが、少し的外れのような気がする。子供を産んでも損はしない、相応の支援が用意されているといった対策は、子供が生まれてから、始めて実感できるものだ。子供が生まれ、医療機関に世話になっても医療証のおかげで実質無料で治療をうけられて助かった、ということだろうが、そのシステムを目当てに子供は産まないはずだ。少子化対策といわれるものは、子供が生まれても安心して育てられますよ、というものだ。それによって出生率は大きくは上がらないのではないだろうか。

“どうして日本の若者は‘やらなくなった’のか?”というガーディアンの記事は、もっと直接的に問題を扱っていると思う。出生率は、単刀直入に“やる”か“やらないか”で決まる、という考えだ。

http://www.theguardian.com/world/2013/oct/20/young-people-japan-stopped-having-sex
Why have young people in Japan stopped having sex?

フランス/スエーデン式というのは、ここを出発点としているような気がする。“やる”か“やらないか”は生物的な行為であるだけではなく、社会的な行為でもあり、その行為に関わる社会規範を、自由に“やってもかまわない”というものにしよう、その結果子供が生まれても損にはならないようになっている、というのが“フランス型の根本的な原理”ではないだろうか。

“やる、やらないなど書くなんて、不謹慎だ”と眉をひそめる人がいるかもしれない。その前に、どうして眉をひそめたのか、どうしてそのような感情を覚えたのか、考えてみてもらいたい。そのような規範で物事を判断しているからではないだろうか。眉をひそめなかった人でも、“自分の子供がそんな社会で生活するのに抵抗はないのか” と問われて、“何の抵抗もない”といえる日本人は多くはいないのではないだろうか。出生率に関わる社会規範を変えるというのは、その心の抵抗を低くするということだろう。婚外子といっただけで、いろいろな社会的偏見が伴い、法整備もこれからといった状態と、婚外子の比率が半数を超えるというフランスやスウェーデンとの開きは大きい。

戦前の人は、このあたりはもっとおおらかだったような気がする。村単位で、“やる”ことを奨励するような慣習もあったようだ。5-6人も子供がいて育てられたのは、支援するような仕組みがあったからだろう。明治のころ風呂は混浴だった。西欧人はそれにショックをうけたそうだ。全国の露天風呂の子宝の湯には、“やる”ことを連想させる仕組みが残っている。戦後、これら伝統的な日本の習慣は否定されて、戦前の尺貫法の世代がいなくなるにつれて、“おおらかさ”がなくなりはじめたと思う。核家族の増加で、村単位の支援システムは機能しなくなったことも影響したのではないか。西欧の男女を分けるという部分はもちこまれたが、その背景に付属するものは伴わなかった。セクハラ、チカンが大きく騒がれ始めたのは 1990年以降、戦前世代の影響がなくなったころからではないだろうか。出生率が低下しつづけた時期と重なる。



0 件のコメント:

コメントを投稿